ミッションと「やるとよいこと」の関係の誤解をときほぐす
⛰️

ミッションと「やるとよいこと」の関係の誤解をときほぐす

最近会社のミッションと向き合う時間がふえている。

ここまでなんとなく私は「ミッションはやることの源泉であるべき」という思い込みをしていた。これは生産性を落とすめちゃくちゃ悪い方向づけだったので、自戒として文章にしたい。

結論として、ミッションは「やること」を選択するために存在している。ミッションは「やるとよいこと」をつくるためのものではない。

質の良い「やるとよいこと」はどこにあるのか

ミッションと睨めっこをしてもいいアイディアは出てこない。良いアイディアは内側になく外側にある。

部屋に閉じこもっていても、インターネットや書籍などによる情報流通のおかげでのあらゆる観点で「やるとよいいこと」は無限に発掘できる。

さらに、もうすこし頑張って外にでて、人に話を聞いたり、実際の体験と向き合うと、より希少性が高く洞察の深い「やったほうがいいこと」と出会うことができる。解決策に閉塞感を感じている人は、ステークホルダーに向き合う時間が足りてない。本やドキュメントを読んで観点をアップデートしながら、一次情報に触れると、ミッションなんてなくても解決すべき課題はすぐにみつかる。

「やるとよいこと」は推進力があるが、進む先までは示してくれない。

ある程度情報収集が進むと、さまざまな抽象度において「よく見える」選択肢が無数にある状態が発生する。この中から、大量のやった方がいいことを切り捨てる作業と、細かい無数のやった方がいいことをきっちり積み上げる作業を選んで実行していくことが必要になる。

向き合う規模が大きく、時間軸が長くなるにつれて「やるとよいこと」の選択と積み上げに連続性を作る必要が生まれてくる。ここでやっとミッションが出てきて、その方向づけを手伝ってくれる。結果として表題にあるとおり、「やると良いこと」を絞る機構としてミッションは機能する。

ミッションを元にした意思決定はトップダウンの物語に翻訳される

ミッションを元にした意思決定はミッションを起点とする物語に翻訳される。

この翻訳の過程で元々は、課題と解の取捨選択の機構だったミッションが、アイディアと戦略の源泉のように変換される。メッセージを伝える構造としてもミッションから逆算された形が分かりやすくなるためこの推敲は正しいプロセスだと思う。

ただ、ここがミッションと「やるとよいこと」の役割を混同させる原因になる。上述の過程と構造を意識してない限り、成果物を見るとミッションは「やること」を考えるツールのように誤解することがある。というか僕や周りの人がこの誤解をしていた。そして考える効率が悪くなったり、ミッションに対する信頼感が薄れたりした。

ミッションはあくまでも選択肢を減らす「枝刈り」のツールとして使うことが適していると今は思っており、この役割のミッションとは今のところ上手く付き合うことができている。